2018年7月19日木曜日

息子の問い: 国語の勉強は本当に役立つのか

早速、うちはやってます。夏休みの宿題。毎回痛い目にあってばかりだったので、最近は子ども自身が進んでやるようになりました(私のサポートは必須ですが)


国語の宿題に苦戦


我が家の場合、補習校の宿題にいつも苦労しています(平日校では長期休暇の宿題はないのです)。

小学4年生の息子の宿題は、

・習った漢字の復習(補習校からではなく、私が出している宿題)
・日本の都道府県の位置と漢字を覚える
・好きな都道府県を1つ選んで、紹介文を書く
・自分が気になるニュースについて1行日記を書く
・ワークブック(1冊の半分が国語)

国語の宿題はどれも楽ではないようです(他にも算数の宿題も出ていたのですが、それはもう全部終わっていました)。

リビングのテーブルには子どもの宿題がいつも散乱してしまってます。



国語の読解問題、解き方は?


国語の読解問題は本当にイヤ!だそうです。でも、今日は本人自らやると宣言してワークブックを開いていました。

私は、昔、塾の先生のアルバイトが楽しかったタイプで、子どもの勉強をみるのは好きです(塾の生徒と違って、自分の子どもはできない、ということを受け入れるのには時間がかかりましたが)。中学入試の国語から大学入試の現代文まで得意だったので、読解問題の解き方を教えるのも好きですが、学校の先生ではないので、すごく端的なことを言ってしまいます。

「本文に書いてあることだけで答えなくてはダメ。自分で答えを考えてはダメ。自分の考えを書きましょうって書いていない限り、自分の考えは必要ない。」

息子の問題の間違え方をみていると、彼は、登場人物に自分を引きつけて考えているのがよくわかります。登場人物の気持ちではなくて、自分が感じたことを答えているようです。

「自分が登場人物だったらどんなことを思うか、なんて考えるのは楽しいし、いいことだとママは思う。でも、それでは答えが見つからない。読解問題では、自分の意見は聞かれていないんだよ。もう1回読んでみて。答えは書いてあるから。」

と説明しました(国語の読解は「行間」を読ませるので、本文に書いていないことを答えさせようとするからキライ、という子がよくいました。確かにどんな言葉でも「行間」があるし、それを理解しないと、特に物語の場合、話がわからなくなってしまいます。「行間」を答える問題は確かにあります。でも、本当に書いていないことを聞かれるのは大学入試くらいかと思います。それは、本文の筆者でなく、出題者の意図を読むと解けると思っています)。


息子からの質問


すかさず、息子が聞きました。

「でも、自分で考えないと、日本語話せるようにならないよね!?」

その通り、でした。

夏休みのワークブックだけが国語の勉強ではありませんが、ワークブックの中身がほとんど漢字と読解に割かれていて、息子自身は漢字と読解だけで国語が終わるように感じているようです。

普段の勉強でも、使っている国語の教科書はとてもいい内容の文章があるのですが、それについて自分の意見を持つ、考えをまとめるという機会が少ないのは認めるしかありませんでした。

補習校は授業時間が足りないので、先生もそこまでやりたくてもできない、という状況なのはわかっているのですが、英語を勉強している時と比べて、自分の意見を話す、書くといったアウトプットが極端に少ないのだろうと思います。

こんな勉強ばかりでは日本語が使えるようにならないのではないか、息子の疑問は本当にいい指摘だと思いました。読解も漢字も大切ですが、何をやるにしてもバランスが必要なのはその通りです。ちょっと我が家の勉強も見直さないといけないかも、と考えました。家庭での影響が一番大きいと思うので、私の子どもとの会話から改善していきたいところです。

さりげなく言っていた息子の一言ですが、はっとさせられますね。


野口由美子







2018年7月15日日曜日

自分がやりたいことを貫け、ということ

子どもたちの学校は学年末。終わりが近づいてくると、まともに授業をやっていないらしく、

「今日はプレイタイムが長かった。」

「集会をやってた。」

「映画を観てた。」

といった話を子どもから聞くのは毎年のことで、今は私もあまり驚かなくなりました(今年は、先生がニンンテンドースイッチを持ってきて、クラスでマリオカートのトーナメントをやった、と息子が言っていたのに少し驚きましたが)。

新しいアイディアを出す授業


そんな遊んでばかり(?)の毎日だったのですが、娘が面白い授業があったと話してくれました。

「友達と一緒に発明を考えたんだよ。全部新しく考えなくても、今ある物を組み合わせるのでも発明はできるんだよ。」

娘の発明の全容がまとめられています!

娘の発明は、靴下にモップがついていて、靴下を履いて歩くだけで部屋の掃除ができるというものだそうです(日本のアイディアグッズにこういうのがありましたよね)。靴下とモップの組み合わせが新しいアイディアだ、と説明してくれました。

絵と文章を使って自分のアイディアを発表するのが授業の目的だったのかな、なかなか有意義な授業、と私は思っていましたが、実は、この授業には元ネタがありました。

授業の素材はテレビ番組


「ママ、Dragon's Den って知ってる?」

私は全く知らなかったのですが、イギリスのテレビ番組らしいです。それをクラスで観たということでした。

「Dragon's Den、Steve Jobs、iPadって入れて、YouTubeを検索してみて。」

娘がクラスで観たのはこの動画だったそうです。





Dragon's Denは、BBC2で現在も続いている番組で、日本で製作された「マネーの虎」のフォーマットが販売され海外でリメイクされている、ということでした。私は全く観たことがなかったので新鮮でした。

起業家が5人のドラゴン(ビジネスに成功し億万長者である投資家)の前でプレゼンを行い、ドラゴンからの投資を引き出します。起業家と投資家のシビアなやり取りが面白いです。

スティーブ・ジョブズにダメ出しするシーンを観て思ったこと


動画を一緒に観ていた娘が言いました。

「iPadに、みんなOut って言っているよね。」

娘にとって「とてつもなく素晴らしい道具」であるiPadが、偉そうな人たちにダメ出しされ、誰も投資しなかったのが強く印象に残ったようでした。

テレビ番組だし、とも思ったのですが、これを子どもが観て何を思うか、ちょっと考えてしまいました。

偉そうな人の言うことなんか聞かないで、自分がいいと思ったことを貫け

ということかな、と。

我が家の子どもたちは、大人の言うことをすんなり聞くような聞き分けの良さはないのですが、むしろそれがいいのかも、と前向きになれそうな気がします。


野口由美子




2018年6月28日木曜日

いじめ? ふざけているだけ? 悩む前にやるべきこと

時々、私は娘に

「学校に行きたくない!」

と泣かれてしまうことがあります。親も子どもにそう言われると悲しいし、困ってしまうものです。私も初めて言われた時はショックでしたが、この3年くらいはずっと、時折そんな朝があります。対応する私にとっていいことなのか悪いことなのか、慣れてきてしまった気がします。


それはいじめ? ふざけているだけ?


この1年くらいは、

「〇〇がいじめる。」

だから学校に行きたくない、と言われることが多かったです。〇〇に入るのはクラスの男の子の名前で、特定の数人が入れ替わりながら、定期的にこのセリフが繰り返されてきました。

「小さいからYear 1(ひとつ下の学年)にいればいいって言われた」

「女の子なのにひげがあるって言われた(娘の髪は真っ黒で、髪の毛同様に産毛も黒く鼻の下の産毛が目立ってしまうので、そのように言われたようでした)。」

いくらでもこのような話が出てくるので、からかうネタには事欠かないようでした。

その男の子たちは、元気で、頭の回転が早く、口も達者。娘は、大人しくて体が小さくて、私から見ても、男の子がからかってみたくなるようなタイプです。娘がからかわれている様子が目に浮かんできます。

でも、わざわざ放課後に娘を家に呼んで一緒に遊んでいるような友達でもある子たちだったので、仲が悪い者同士のケンカでもないようです。男の子は、悪気もなく、無邪気な気持ちでやっているのだろうと思いました。

「やめてって言ってもやめてくれない。また言う。」

娘に、男の子はふざけているだけだから気にしなくていい、と私は言っていました。でも、実際に本人はずっと気にしていて、嫌な気持ちであることを訴えているので、納得できないようです。

男の子たちに直接私から伝えるか? と考えましたが、いじめているつもりはないと言い張ってくるであろう男の子を理解させる自信はありませんでした。

先生や男の子の親に話すのもこじれそうでちょっと怖いです。娘が気にしすぎている部分もあると思っていたので、もし自分が男の子の親の立場だったら困惑するだけかも、という気がして、いい方法には思えませんでした。

いじめなのか、ふざけているだけなのか、人によって感じ方は違うものだし、見方によっても変わります。判断は難しいものです(判断が難しくても、本人が嫌ならばそれはやはりいじめだと思うので、ここでは「いじめ」と呼びますが)。


いじめのメカニズムを知る


そんな時、友人が教えてくれた動画を娘と一緒に観ました。この動画ではいじめが起きるメカニズムを説明し、いじめをやめさせる方法を伝授しています。





講師であるブルックス・ギブスさんがいじめられる役になるロール・プレイを観て笑っていた娘ですが、いじめのメカニズムについての説明は難しく、よくわからなかったようでした。

何か嫌なことを言われたら、

「ありがとう。」

「そう言ってくれてうれしいな。君はいい人だね。」

というようなことを言い続けてひたすらやり過ごせばいい、という動画のメッセージを一緒に話し合って確認しました。


自力でいじめを止めた娘


ついでに、私は娘に、息子に向かって実践するようにアドバイスしました。息子も娘をからかうひとりです。

「You are so ugly! (ブスだね)。」

そんながっかりするような幼いセリフで妹を怒らせては喜んでいる兄に勝てるかも、と私は思って見守っていました。

Thank you (ありがとう)。」

娘は定型文で返しました。

You are so smelly! (体から変な匂いがする)。」

Are you poo!? (うんちみたいだよね)。」

兄からはいくらでもセリフが出てくるので、最後には妹が、

Stop it! (もうやめて!)」

と結局泣き出し、負けてしまいました。

動画の説明では、こうして人がいやがるような言葉をかけることを支配行動 (Dominance Behavior) といいます。その言動にのせられて怒ったり、悲しんだり、感情を露わにすることは、いじめっ子の勝利を意味します。言われた側は動じることなく受け流すようになると、いじめっ子は面白くないのでいじめを止める、ということでした。

娘には難しいかも、とこの時思いましたが、何度か忘れた頃に動画を一緒に観て、兄に向かって実践させ、学校でも同じようにやるようにと繰り返しました。

「これってDominance Behavior (支配行動) なんでしょ?」 

ふと娘が言いました。だんだん娘もわかってきたようで、娘は、嫌なことを言われても冷静を保てるようになっていました。私にこういうこと言われたけれどどう? と確認してくるようになりました。そう言われてどうしたのか聞くと、

「知らん顔した。」

気がつくと、息子が娘に嫌なことを言う場面もほとんどなくなっていました。娘が怒ったり泣いたりというような反応をしなくなったので、面白くなくなったようです(でも、娘が息子に対して嫌がらせをするという逆のパターンは減らないので、ケンカはなくならないのですが)。

そして、

「いじめられるから学校に行きたくない。」

と娘が言うことはなくなりました。彼女の中ですべてが解決したわけではないようですが、少し彼女は強くなれたみたいです。

もし、子どもがいじめられているかも、精神的な嫌がらせにあっているかも、と思い当たることがあったら、ぜひ観てほしい動画です。


野口由美子

2018年6月23日土曜日

海外で、日本で、子どもの英語教育方法を知る

「海外でも英語教育、バイリンガル教育に熱心な親は多い。」

とつくづく思います。私はもともと、「子どものうちはのびのびと!」というタイプで、英語に限らず教育に対してあまり熱心ではありませんでした。しかし、今私の周りにいるのは教育熱心な親ばかり。私より英語ができるのにまだ足りないのかと不思議なくらい英語教育重視の人が多いです。さらにヨーロッパの小国にいると複数の言語ができて当たり前。そんな(ちょっと特殊な)環境で、子どもの成長を目の当たりにしていくうちに、私もすっかり考え方が変わりました。今は自分も英語教育に熱心な親のひとりとなったと思います。

子ども英語教育について、学校で開かれるワークショップや講演に参加したり、他の方の体験談を聞いたり、いろいろな話を聞いてきました。ここで(自分のためにも)今まで聞いてきたことをまとめておこうと思います。英語に限らず、第2言語「習得」の話が多かったのですが、最近聞いた講演では第2言語「忘却」という別の観点で英語教育の話も聞きました。

忘却というのは、たとえば、海外生活からの帰国後に海外で話していた言語を保持するにはどうしたらいいのか、といったことを想定しています。習得と忘却、真逆の観点ですが、どちらから見ても結局同じ結論に至るように思え、実はバイリンガル教育には王道があるのではないかと考えるようになりました。

・英語教育、いつからがベスト、というのはない


幼児期から英語教育を始めるべきとか、始めるべきではないとか、そういう論争は繰り返し起きている印象ですが、いつがベスト、という結論はないそうです。ただ実際に赤ちゃんはお腹にいる時から複数の言語の違いを聞き分けていて、小さな赤ちゃんからバイリンガル教育を始めることができます。お父さんとお母さんの第1言語が違う家庭は、胎児の時からバイリンガルが始めることが多いと思います。

小さな子どもの言語習得の利点は、やはり発音だそうです。言葉の発音を聞き分ける能力は幼い子どもの方が優れていて、10歳くらいでその能力は衰えてしまうこともわかっています。しかし、幼いほど言葉を忘れてしまうことも簡単です。

むしろ大きくなってから勉強を始めた方が、最初から文法など体系的な理解ができるので、効率的である場合もあります。しかも幼い子どもよりも忘れにくく、定着します。

かつては私も早期英語教育は維持が難しいという理由で反対していましたが、大きくなってから、たとえば中学生から英語の勉強を始めても、語学のセンスがある人しか英語を身につけられない、と諦めている部分がありました。

しかし、幼い時から始めても、大きくなってから始めても、どちらの場合でもバイリンガルにはなれるそうです。確かに、英語だけでなく、フランス語、ドイツ語と複数の言葉を使いこなせる人がたくさん周囲にいますが、誰もが幼い時からいろいろな言語を学んでいたわけではなかったです。そこには、ヨーロッパの言語の多くが、日本語よりもお互いに言語的な近さがあり、日本語よりハードルが低いという有利な点はあると思います。

でも、言葉が近いといっても、自然にできるようになったわけではなく、教育をしっかり受けてきた人はきちんとした言葉を話す一方で、不正確な言葉を話す人もたくさんいることにも気づきます。何歳で始めるかということより、いかに教育を提供できるかということが大切なのだと思います。

ただし、そのような状況を踏まえたうえで、結果的には英語教育の早期化が流行っているように感じます。オランダの現地校では10歳から英語教育を行うのが標準だそうですが、今は4歳5歳から英語の授業を行うとアピールする学校が増えました。幼児期から始めた方が有利、と考える人が増えているのではないかと思います。

・「読む」ことがカギ


子どもが言葉を学ぶには、聞くことから始まり、だんだん話せるようになってくるのが自然な流れです。子どもが自ら第2言語を話すようになると親としてはうれしいものです。しかし、言語を身につけるときにカギとなってくるのは、話すことよりも読むことだそうです。

読むことにより、聞く、話すだけでは不十分になりがちな、文法や語彙などの知識をより強化することができます。また、言葉を忘れずに維持していくにも読むことが有効なのだそうです。たとえば、海外生活から日本に帰国した場合、外国語に触れる機会が急に減って、言葉を忘れてしまうわけですが、読む能力は聞いたり話したりする能力よりも衰えにくいのだそうです。

日本にルーツがあるけれど、一度も日本に住んだことがない知人がいます。彼女は日本語を使うことに全く支障がありません。彼女から送られてくるフォーマルなメールを読んでも、不自然な表現や文法の誤りもほとんどありません。彼女は子どもの頃からずっと日本のマンガを読むのが好きだったそうです。もちろん海外で日本語補習校に通うといった努力もあったそうですが、(マンガであっても)日本語を積極的に読んできたことがよかったと実感しているそうです。

・文法は軽視できない


日本で中学生から英語の勉強を始めた私は、自分が文法偏重の英語学習で失敗してきたような気がして、言葉を学ぶには文法よりももっと大切なことがあるはず、と思っていましたが、文法を軽視することはよくないそうです。

幼い子どもが言葉を簡単に忘れてしまうのは、文法などの言語の基礎がしっかりできあがっていないからだと考えられています。正しい言葉を定着させるには、文法も当然大切になってくるのです。

子どもの学校(ブリティッシュ・スクールなので、アメリカン・インターナショナル・スクールなどとは違うところもあるようです)では、7歳の基礎段階から英語の名詞、動詞、形容詞とは何か、主語と述語の関係といった文の構造も授業で扱われていて、驚いたことがあります。そして、文法を説明するだけに終わらせず、それを使いこなせるように文章をたくさん書かせます。同じアウトプットでも話すことよりも書くことの方が難しいものです。語彙、綴りや文法があまりできなくても話すだけなら何とかなりますが、書くときにはごまかしがききません。聞く、話す、ばかりでなく、言葉が少し理解できるようになってきたら、読み書きも始めることが必要なのだそうです。

・長い目で見ないと本当の成果はわからない


複数言語の習得は、子供にとって負担、第1言語の習得に遅れが出る、他の分野での成績が悪くなる、と考えられることが多いと思いますが、実際にはバイリンガルが学業に悪影響を与えるということは証明されてはいないそうです。

ただ、言語を習得する過程には個人差があるので、ある子にとっては容易にできることもほかの子には時間がかかることもあります。学校の成績が芳しくないと、うちの子は遅れている、とか、バイリンガルには向いていない、と思ってしまいがちですが、それは一時的なことなのだそうです。長期的には、複数言語を習得することは、そのほかの学業全般にも良い影響を与えるとされています。

しかし、「長い目で見る」ことが難しい場面はたくさんあります。現実的には日本の学校教育のように学校のカリキュラムには第2言語教育がきちんと組み込まれていないと特に、子どもの成績が伸び悩んでいるときに、親が第2言語の勉強を重視し続けるのは親としても苦しいと思います。

私自身、自分の息子を見ていると本当にそう思います。イギリスの教育と日本の教育の両方を受けている息子ですが、国語(英語、日本語)を含め学業面でもっと努力が必要な段階、とどちらの学校の先生にも同じことを言われます。特に国語は底上げが必要。日本語も英語も、文法的理解が不十分、語彙が足りない、読み書きへの苦手意識が強い、全く同じコメントです。もしも、日本語だけだったら、日本語に触れる時間が格段に増えて、語彙も多くなるだろうし、文法などの理解ももっと深められるのではないかと思うこともあります。

息子はバイリンガルには向いていない、と思ってしまいます。でも、息子のクラスメイトの読み書きのレベルを見てみるとかなり個人差があるのは明白なのですが、何年か経つとその差は少しずつながら狭まっているようにも思います。かなり高レベルな子が同じクラスにいるのを見ては慌てていた私ですが、3年くらい経つと昔ほどの大きな差が感じられなくなりました。勉強をやめなければ、誰でもある一定以上の水準には到達できるのではないか、というのが今の私の感触です。

・バイリンガルは親から子どもへのプレゼント


学校の先生からも、言語学の先生からも、よくこのようなセリフを聞きました。子どもの能力や周りの環境が大事ではないかと思っていた私にとって、すべてが「親次第」と言われているようで戸惑います。どうやら、学校などで勉強しているから、というだけでは複数言語を使えるようにはならないということのようです。

一番近くにいる親がどのようにサポートするかによって、成果は大きく変わります。というと、親も英語ができないとダメなのではないか、厳しく子どもを勉強させないといけないのでは、と思ってしまいますが、そういうことではないそうです。第2言語を使うことに対して、親が肯定的な態度を持っていることが大切なのだそうです。子どもが第2言語を使うことを褒めたり、親も関心を持って一緒に勉強したり、というのが重要なのだそうです。言葉を習得するのは長い時間をかけて地道な努力が必要となるので、決して楽ではないと思いますが、前向きに楽しんで学べるように助けていくのが親の役割です。

子どもにとって、言語を学ぶことの優先順位が下がってくることもあります。その言語を身についけることが子供自身にとってどのような意味を持つのか、家庭や社会の環境によっても変わってきますし、スポーツや音楽など本人のやりたいことがはっきりしてくると第2言語の優先順位が落ちてくるのも当然の流れだと思います。そういう時がきてもバランスを取りながら、長く継続することは容易なことではないだろうと思います。

なかなか難しいものですが、我が家で一番重視している取り組みは、子どもたちが複数の言語ができることは得だと思ってもらえるように、子どもが喜びそうな本やテレビ番組、映画など、せっせと集めることです。

読むことが苦手でも、絶えず周りに本を置いておくだけでも効果あり、でした。


こういう時、日本語はとてもいいですね。本もマンガもアニメも充実していて、子どもにとっても魅力的です。やはり英語の方が圧倒的にコンテンツが多くアクセスしやすいのですが、日本語の魅力が衰えないでほしいです。


野口由美子

2018年6月15日金曜日

「ワンダー」映画と原作どちらがいいか

ベストセラーの児童書「ワンダー(原題: Wonder)」映画版が、日本でもちょうど今、2018年6月公開になったそうです(映画の邦題:「ワンダー 君は太陽」)。

ヨーロッパでの公開は去年だったので、原作本のファンだった私は喜んで観に行きました。

"Wonder" (2017)


映画版「ワンダー」を観て


主人公のオーガストは10歳の男の子。障害を持って生まれたオーガストの顔は、周りの大人が顔色を変え、子どもは逃げ出すか、指をさしてじろじろ見るか、「普通」の容貌ではないという悩みを抱えています。そのオーガストが初めて学校に通うことになります。最初は学校で孤立してしまいますが、友達や先生に出会い、家族の愛情を受けながら、いじめに立ち向かい、成長していく物語です。

映画では家族の絆の大切さや友情の力を訴える感動作となっていました。オーガストのお母さん役のジュリア・ロバーツが輝き、オーガストのお姉さんや友達など子役の生き生きとした演技を観ることができます

原作本「ワンダー」の魅力


息子は原作本にのめり込んだひとりで、彼にとっては初めて1冊読み通せた本がこの「ワンダー」でした。

自分がふつうの10歳の子でないって、わかってる。 
I know I’m not an ordinary ten-year-old kid. 

そんな書き出しで始まり、1ページ目の最後には、

ところで、ぼくの名前はオーガスト。オギーとよばれることもある。外見については説明しない。君がどう想像したって、きっとそれよりひどいから。 
My name is August, by the way. I won’t describe what I look like. Whatever you’re thinking, it’s probably worse. 

主人公が語る形でストーリーは始まりますが、最初のページで息子は息を飲みました。主人公に自分を投影することができず親しみが持てない、しかもつらい話が続くのでは、と最初はあまり積極的に読みたがりませんでした。

しかし、本は子どもが読み進めやすいように、ストーリーで深みが出るように工夫されていて、息子もだんだん自分で本を手に取るようになりました。本が苦手な子にも親しみやすくなっています。

  • 話は家族の出来事や学校の授業やランチタイムなど、2ページ程度の短いエピソードが積み重なっていくので、テンポが良く、わかりやすい
  • 主人公だけでなく、主人公のお姉さんや友達などいろいろな登場人物が交代で物語を語るので、いろいろな登場人物の視点から共感できる

そんな工夫のおかげで、オーガストが1年間学校に通い最後の修了式に出るラストシーンまで息子は読み通すことができました。

最後に

「やった!」

と本を片手に心から喜んでいた息子の表情は、息子もオーガストの学校の生徒になっているかのようでした。

息子は、主人公の友達のジャック・ウィルが好きだと言いました。最初はオーガストのことを気味悪いと感じたり、いじめられている彼に親切にすると自分もいじめられることになるのではと恐れたりします。それでもオーガストの素直で機転が効いてユーモアに溢れた性格に強く惹かれ、仲良くなっていきます。息子が一番自分に近い存在だと感じたようです。

映画と本の違い


映画版ではジャック・ウィル役の子(ノア・ジュプ)が本のイメージそのままに、息子の友達にもいそうな自然で「どこにでもいる子」らしく生き生きしていました。

あんなに好きだった本だから、映画も喜ぶのではないかと思い、私は息子を映画に誘いました。

「嫌だよ。観たくない。」

断固拒否されました。怖いのだそうです。自分が想像するよりもっとひどい、と本に書かれていた主人公の顔を映像で見たくない、ということでした。映画の主人公の顔は、原作の表現よりもだいぶ控えめの特殊メイクで、その顔を観ていてつらくはなかったのですが、そう説明してもダメでした。

それだけ強く印象に残った本なのかもしれません。テレビ大好きの息子ですが、今回は本が映像に勝ったということかも、と前向きに解釈をして引き下がりました。

まだ原作を読んでいない人には、映画を先に観ることをおすすめしたいです。映画はとてもうまくまとまっていて感動的で、その後に本を読むとさらにストーリーに引き込まれます。

正しいことをするか、親切なことをするか、どちらかを選ぶときには、親切を選べ

これはストーリーの中で重要な役割を果たす言葉(格言)です。そんなことを大人も考えさせられます。映画を観た後、私もまた本を読みました。繰り返し読みたくなる本です。

(引用: R. J. Palacio "Wonder" Random House Children's Publisher. 
日本語版 中井はるの訳ほるぷ社刊)


野口由美子

2018年6月11日月曜日

「いちいち失望しているようではまだ甘い」本当の大人を見た

子どもの誕生日の話はよくしますが、今回は珍しく自分の誕生日に起きた小さな出来事の話です。今年の誕生日はちょっと特別なことを、と私が前から行きたかったコンサートに出かけました。

コンサートといっても、今人気のバンドや歌手などではなく、かなり渋いクラシックコンサート。ロックやジャズもいいけれど、今住んでいるオランダではクラシックが一番身近に感じられます(毎シーズン何回か聴きに行きますが、カジュアルで飲物のサービスまであって、気軽に入れます)。

演目は、

コンセルトヘボウ管弦楽団
ベルナルト・ハイティンク指揮
マーラー交響曲第9番

コンセルトヘボウのホールで聞くコンセルトヘボウ管弦楽団はやはり世界屈指のオーケストラですし、ハイティンクは巨匠、と呼ばれるような特別な存在。チケットの値段も他の指揮者よりも1.5倍くらい高いのですが、それでも早く売り切れます。熱心なクラシックファンではない私ですが、一度は聴いてみたい、と思っていたので、いつもだったら買わないような高いチケットを買って、ずっと楽しみにしていました。


コンサート当日にがっかりしたこと


当日、開演1時間前にはホールの入口に来ていました。すでに人が集まり始めています。ふとモニターの画面に映し出されている今日の上演スケジュールを見ると、

指揮: ケレム・ハサン

指揮者の名前が変わっているのを見て、愕然としました。慌てて、チケットのメールを見直そうすると、数時間前に指揮者変更のお知らせがメールで届いていたことに気づきました。

ハイティンクは前の公演終了時に転倒し、現在快方にむかっていますが、休養が必要と判断し本日の指揮は行わないことになりました。指揮はアシスタント・コンダクターのケレム・ハサンが務めます。

私はそのメールを見た瞬間に、窓口に直行しました。

「今日のチケットの払い戻しはできますか。」

「それはできません。オーケストラは揃っているし、演目も変更ありません。指揮者が変更になっただけでは、払い戻しはできないんです。」

でも、みんな指揮者を見に来ているのに、去年から楽しみにしていたのに、と完全にがっかりしている様子の私に窓口の女性は言いました。

「でもオーケストラはとてもいい状態だし、彼はとてもいい指揮をすると思います。ぜひ聴いていってください。」

その場しのぎに慰めの言葉をかけているだけだろうと私は思いましたが、チケットを無駄にすることもできず、会場に入ることにしました。


会場内に不満の声は?


周りの客席を見ると私のように動揺したり落胆したりしている様子の人はあまりいません。みんな指揮者の変更知っているのかな、と心配になってしまうくらいでした。他のコンサートと変わらないリラックスした雰囲気です。

開演時間になりました。演奏に先立ち、主催者の代表が指揮者の交代について説明しました。一瞬、ちょっとだけ会場の空気が変わり、この時初めて知った、という感じの人もいましたが、それでも平然としている人がやっぱり多かったです。ハイティンクは大事に至らず元気になってきている、という説明にほっとしている様子。どよめきさえ起きることなく、説明は簡単に終わりました。

みんなハイティンクを見たくて、かなり前から高いお金出してチケット買ったはずなのに、どうしてこんなに平然としていられるんだろう。私には不思議でなりませんでした。


指揮者の登場に観客は


そして、代役の指揮者が登場しました。

会場は、普段よりも温かい大きな拍手に包まれました。歓迎ムードで、観客は若い指揮者を応援しているかのようでした。その雰囲気に私は完全に意表をつかれていました。

張り詰めた第1楽章が終わり、指揮者はハンカチで両方の手のひらをゴシゴシ拭きました。堂々と指揮をしているように見えましたが、かなり緊張しているようです。巨匠の代役、こんな大役を急に任されてしまったのだから当然かもしれません。

しかし、その後は緊張が和らいだのか、ぐっと演奏に幅が出て、第4楽章に入るときにはホール全体の空気が変わっていました。

指揮者の実力だったのか、オーケストラのメンバーが緊急事態にいつも以上の力を出したのか、その両方があったからか、私にはわかりませんでしたが、ホールは一体感に包まれ、感動的な演奏になっていきました。

演奏後の拍手は今まで観たコンサートの中では一番熱烈で、観客のほとんど全員が立ち上がっていました。指揮者はもちろん、オーケストラのメンバーも満足そうでした。


スタンディング・オベーション。拍手は長い間鳴り止みませんでした。

ハサン自ら語っている言葉もよかったのでツイッターを引用します。


「器の大きさ」が違う


私は、開演前にがっかりしていた自分が恥ずかしくなりました。コンセルトヘボウで演奏したこともない代役の指揮者。まだ26歳の若者。ほとんどの人は彼の名前さえ知らなかったのではないかと思います。でも観客は突然現れた若い指揮者を最初から応援していました。最初に観客が拒絶していたら、今回のような演奏はできなかったと思います。聴衆の器が大きさを感じました。

今回降板したハイティンク自身も50年ほど前に代役でコンセルトヘボウで指揮をしたのがデビューだったそうです。今回同じような形で代役の指揮をしたハサンも、もしかしたら10年後にはコンセルトヘボウの首席指揮者になるかもしれないし、30年後には名指揮者と呼ばれているかもしれません。そう考えると、今回自分はむしろラッキーだったのでは、とさえ思えてきます。

期待はずれ、がっかり、失望。自分も誰も悪くなくても、嫌な出来事を完全に避けることはできませんが、そんな時、ただ失望して諦めてしまうようでは、まだまだ甘い。そんなことを教わったような気がしました。もう私自身も歳を重ねていい大人、と思っていたのですが、まだまだ至らない自分に気づかせてもらった、いい誕生日になりました。


野口由美子


追記: ケレム・ハサン氏のツイッターの引用を差し替えましました(2018年6月12日)。






2018年6月7日木曜日

子どもの創造性はどこから? 学校のアートの授業

私の娘は、学校の授業でアートが一番好きだそうです。

小さい時から外で走り回っていれば満足な息子とは違い、家でお絵かき、塗り絵をするのも好きだった娘。朝の着替えも対照的で、クローゼットの中から最初に手に触れた服を着る息子に対して、いちいち服を広げて上下並べ、色やシルエットのバランスを考えて今日のコーディネートを考えるこだわりの娘(最終的には数枚しかないお気に入りばかり選ぶことになるのですが)。

子どもがアートの授業で何をやっているのか、私はこれまであまり知らないままでしたが、娘のアートに対する情熱は一段と違うようです。そんな娘が実際にどんなことをやっているのか、ちょっと興味を持つようになりました。

6歳でゴッホの模写


去年娘が描いた作品にはこんな絵がありました。

子どもなりに一生懸命描いたことがよくわかりました。


「ママこれが何の絵だかわかるよ。」

「ファン・ゴッホでしょ?」

「そう、すごい。ママも知っているの?」

ゴッホの「ひまわり」を忠実に真似するというのが授業の課題だったそうです。

私がイメージしていた子どもの絵とは、だいぶ違うのでちょっと驚きました。

「自由に描いてごらん。」

「自分が見て感じたとおりに描けばいいんだよ。」

というような、子どもの独創性とか創造性とか、「自由」が強調される(自分も子どもの時にそんなことを言われてきたような気がします)イメージを持っていましたが、娘のアートの時間は必ずしもそうではないみたいでした。

7歳でキュビズム


最近描いた彼女の自信作は学校の廊下に貼られていました。自分の絵が飾られたのが誇らしかったみたいです。

この絵も結構驚きました。


「ピカソの絵を勉強したの?」

「ピカソってママも知っているんだ。これはキュビズムなの。」

他の子の作品もそれぞれ個性的でした。

同じことを習って描いた絵でもこんなに違いました。


「自分の好きなように描いていいんだね。」

「自分で考えて描いていいんだけれど、わからないところは真似していいって先生が言った。頭のところはわからなかったから、先生がコピーして描いていいって言った。」

なるほど、自由に描くことを「強要」するものではないんだな、と興味深かったです。ひとつの描き方やスタイルを教わってから、自由に描くことが始まるようです。

バルセロナのピカソ美術館で


さらに、先日バルセロナに旅行した時、ピカソ美術館を訪れました。いつもは美術館に行くことを嫌がる子どもたちなのですが、学校の授業の効果か、今回は子どもと一緒に楽しめました。

娘は案の定キュビズム時代の作品をよく観ていました。

「前から見た顔と横から見た顔と一緒に描くんだよ。横から見ると目は1つだけど、前からだと2つ。これは横の顔だけれど、前からと横からと両方の目を描いているんだよ。」

娘の解説付き。自分も同じスタイルの絵を描いたので、作品に親しみを感じるようでした。

息子も熱心な娘の影響を受けたのか、ピカソが14歳の作品に圧倒されたり、自分の気に入った作品を見つけたりしていました。

息子はいつも美術館外に出たい一心なのですが、
この日はピカソの「ラス・メニーナス」のポスターをお土産に選んでました。

子どもも芸術に触れるべき。だけど、うちにはまだ早いかも、とずっと諦めていましたが、いいきっかけがあれば、やはり子どもの感性に届くものなのだなと思いました。

何がきっかけになるかは、最初からはわからないものです。たくさん拾い上げてみたいです。



野口由美子