2019年5月10日金曜日

子どもの翼を切らない、ために

子どもの翼を切らない、という言葉を聞いたことがありますか。マララ・ユスザイさんがノーベル賞授賞式のスピーチの一節にある言葉です。

「お父さん、私の翼を切らず、羽ばたかせてくれてありがとう。
(Thank you to my father, for not clipping my wings, for letting me fly.)」

17歳でノーベル平和賞を受賞したスピーチの中で、彼女が言った言葉です。まだこれはスピーチの冒頭部分なのですが、その言葉を聞いたお父さんが涙ぐみながら胸を押さえる映像はとても印象に残りました。パキスタンの女の子が教育を受けて、女性の権利のために立ち上がる姿はまさに「羽ばたいて」いて輝かしく見えます。

(興味のある方は是非スピーチのビデオを観てみてください。冒頭部分で感動してしまいます。 The Nobel Prize "Malala Yousafzai -Nobel Lecture." 

その時は、マララさんの「翼」に感動しつつも、貧困や紛争、女性に対する古い価値観といったイメージと結びついて、なんとなく、私たちとは違う世界の話に感じてしまっていました。


自分は翼を切ろうとしているかも


でも、私自身が親として「子どもの翼を切ろうとしていないか」と思わされたことがありました。

ある時、友人がこんなことを言っていました。

「親は子どもの邪魔をしないようにしていればいいんじゃないかな。大人が邪魔さえしなければ、子どもは自分でやりたいことを見つけて、自分で成長していくんだと思う。」

これはもしかして、翼を切る話につながっているのでは。翼、みたいな美しい表現よりも「邪魔をしない」という方が親の立場になった自分にはよく理解できました。

「あれしなさい。」

「こうすべき。」

「この方がうまくいくから。」

「そんなこと今やる必要ない。」

もしかしたら今自分は子どもの「邪魔している」かも。


娘の邪魔をしなかった母


私の子ども時代、親が私の「邪魔しなかった」という思い出があります。

1年生の私のクラスには先生の私物の学級文庫がありました。数百冊あったのではないかと思います。教室の窓側に本箱が並んでいました。

「だるまちゃんとてんぐちゃん」「ぐりとぐら」「11ぴきのねこ」「エルマーのぼうけん」「マザーグースのうた」谷川俊太郎さんの「ことばあそびうた」などなど。

日本昔話やアンデルセン、イソップ童話くらいしか家になかった私には、こんな面白いものがあるのかと子どもながら衝撃でした。多くが絵本だったので、たくさんあるとはいえ、休み時間などを使って私はほぼ読み終えてしまいました。

母は、

「先生がね、お姉ちゃん(私はそう呼ばれていました)がすごく本が好きだって言っていたよ。」

と私を家の近くの図書館に連れて行ってくれるようになりました。

歩いて行ける近所の小さな図書館で、私は手当たり次第、本を借りるようになりました。借りてきても気に入らずに読まなかった本もたくさんあったように思いますし、脈絡なくなんとなく表紙を見て、みたいな感じで漫然と借りていただけだったように思います。

そんな手当たり次第に本を選んでいる私に、母は

「この本を読んでみたら?」

「これはいい本よ。」

というようなアドバイスをしませんでした。母と一緒に本を選んだ記憶がほとんどありません。

私の親の世代はあまり日本の創作絵本がなかった世代、ちょうど私が子どもの頃は、日本で作られた新しい創作絵本も海外の翻訳絵本もたくさんありました。家にそういう新しい絵本がなかったことを思うと、もしかしたら母はそういう本を知らなかったかだけかもしれません。

母は母で、大人向けの本のコーナーに行って自分が借りたい本を選んでいました。母は特別「高尚な」読書家ではなく、当時の流行作家だったり、アガサ・クリスティーのような推理小説だったり、いわゆる娯楽小説の類を借りて、家で開いていました。

「これ面白いのよねえ。犯人は誰なのかなあって考えながら読んでいると本当楽しい。」

母がそんなことをよく言っていたのは覚えています。本を読むと勉強ができるようになる、とか、いい本を読むべき、とかではなく、ただ「楽しいと思う本を好きに読めばいい」というスタンスの母だったので、私の図書館通いも続いたのだと思います。母自身も楽しそうでした(妹もいたので、本当は私の図書館通いに付き合うのは大変だったかもしれませんが)。

ただやみくもに本を手に取っていた私もだんだん、いろいろな本の面白さがわかるようになると、今度は近所の図書館は小さすぎると感じるようになりました。母は自転車で一緒に遠くの図書館に連れて行ってくれるようになりました。

それでも足りなくなって、区で一番大きな図書館にも行くようになっていた頃、私もようやく1人で図書館に行くようになっていました。たぶん1人で図書館に行くようになったのは小学校3年くらいの時で、それまでずっと図書館通いに母は付き合ってくれました。

気に入った本があるとその続きの話を自分で考えて書いてみたり、作風を真似してみたり、別のジャンルに書き換えたり、マンガにしたり。誰にも見せない秘密のノートにいろいろ書いていました。誰かに言われたわけでもなく、ただ

「やってみたいから。」

ひとりで本ばかり読んでそれに飽きるとノートに何か書いている、勉強に全く使っていない自分の机に本が何冊も積んであるとうれしい。今思うと暗い少女時代で、私が母の立場だったら、友達がいないのでは、と心配したかもしれません。でも、母は私が本を読むことを褒めることもなければ、他のこともやりなさいと注意することもありませんでした。自作のノートもかなりの量になりましたが、恥ずかしくて全部捨ててしまったような気がします。家でひとり、誰にも邪魔されずひっそりとやっていました。


大人になってわかったこと


そんな「邪魔されなかった」子ども時代に感謝すべきことに気がついたのは、海外で生活をするようになってからです。

私は急に専業主婦になったけれど、家事は苦手、仕事もなく、趣味もなく、私には何もやることがない、と思った時(海外駐在に帯同した奥さんがこういう状態になるのは危険なことです)、

「また書くことをやってみたら、楽しいかもしれない。」

とふと思ったのです。今はネットも電子書籍も便利で日本語で「読む」ことは比較的簡単ですが、日本語で「話す」機会が減っていました。私はせめて「書く」ことができたら気が晴れるかもしれない、と思い、いろいろな文章を書いてみることにしました。

やり始めると「書く」ことはとても楽しく、思いがけない出会いや、貴重な体験もたくさんできました。「本当に自分がやりたいこと」でないと、そういういい経験につながっていくことはなかったかもしれません。

マララさんよりもだいぶ小さな話になってしまいましたが、1人1人の人生を豊かにする何かって誰にも「邪魔されず」に自分で見つけるもの、とようやく気がつきました。

ちょっと今の私は子どもたちにうるさく言いすぎかも、と反省しつつ、子どもたちの

「〇〇をやってみたい。」

「XXに行ってみたい。」

に、「ダメ」と絶対言わないことにしました。確かに経済的、物理的に不可能なこともあって、100%叶えてあげられるわけではないのですが、どんなことであっても頭ごなしに否定することはしないで、できる限り付き合っていきたいと思うようになりました。


今はただジャンプしていることが好きかもしれないですが、
子どもたちには高く自由に飛んでほしいと思うものですね。




野口由美子




2019年4月27日土曜日

「よくできたね!」と子どもに言ってはいけない理由

子どもには自信を持ってもらいたい。そう思って「ほめて育てたい」と考える親は多いと思います。私もそうです。でも、ほめるときに言ってはいけない言葉があることを知りました。

「あなたは頭がいい。」

「才能がある。」

ただテストの点数や成績といった「結果」をほめるのはダメ、なのです。

マインドセットの問題


なぜなら、そういう褒め言葉は結果に固執し、間違えることを恐れるようになるから。間違えることは悪いことだと思っていると、難しいことや新しいことにチャレンジする気持ちが失われてしまい、人の能力や知性の発達を阻害してしまうのです。

間違えることを恐れずに、難しいこと、未知のことに失敗してもチャレンジし続ける「しなやかマインドセット(Growth mindset)」を育てることが子どもの教育には必要である、という考え方があります。

子どもの学校の廊下。
暗示をかけるかのように「マインドセット」の掲示ばかり。


Growth mindsetはキャロル・ドゥエックさんが提唱するもので、人の能力は学習により伸ばすことができるという強い「信念」に基づいていると思います。あえて私が「信念」と呼ぶのは、現実には人の能力は遺伝や家庭環境によって決まる部分が多いという説もたくさんあるからです。彼女自身長年の研究で自説の正当性を説いていますが、私たち大人自身が、生まれ持った個人の才能よりも努力やチャレンジを重んじる気持ちを持たなければならないと思います。



子どもが伸びるほめ方とは


しなやかマインドセットを育てるには「結果」ではなく「過程」をほめなることが大切。

漢字テストでいい点数が取れても、ただ、

「いい点が取れてすごいね!」

と言うのではなくて、

「毎日漢字の練習を続けてすごくがんばっていたよね。だから、テストでいい点数が取れたんだね!」

と言うことになるわけです。

実践してみると、これは意外と難しいものです。過程を知らないといけないわけですから、ほめる方も子どもの辿っている過程を把握して、タイミングよくほめる必要があります。ただ結果が出た時にその出来具合を見ればいい、という方がずっと簡単でたくさんほめることができるものです。

子どもをやる気にさせるには


私自身も難しさを感じているのですが、子どもたちの学校でも全校を挙げて「Growth mindset」に取り組んでいるそうです。親向けにもワークショップも開かれていました。

ワークショップで強調されていたのは、いかに子どもの

「難しい」

「できない」

という気持ちを

「やってみよう」

に変えるか、ということでした。

切り口が面白かったです。

「筋力をつけようと思ったら、トレーニングをして筋肉を鍛えますよね。脳も同じで、鍛えることができる、ということを子どもたちには話しています。簡単なことをやっているだけでは鍛えることにはならない。難しいこと、苦手なこと、できないことに取り組んでいる時、学んでいる時に脳のニューロンが働いて脳が成長するんです。難しい問題がなかなか解けないとき、「ほら、今脳のニューロンが一生懸命働いて脳が成長しているわね!」なんて言ったりしているんです。」

後で子どもに聞いてみると、

「間違いから学べ(Mistakes make us learn.)」

「あきらめない(Don’t give up.)」

「チャレンジしてみて(Try your best!)」

というようなフレーズが条件反射のように出てくるので、普段からそういうことを先生から言われ続けているようです。

最近の私は

「なんでこんな問題もできないの!?」

「また間違えてる!何度やったらわかるの!?」

というような子どもへの批判や判断は封印して、

「この問題難しかった?ニューロンが活動していているねえ!」

なんて言ってみるようにしていますが、まだまだ私もこの取り組みにチャレンジしていかないといけないと思っています。


野口由美子


2019年3月28日木曜日

日本の英語教育は、英語以前の問題?

海外に住むことになってから、子どもたちは日本と違う教育を受けるようになり、親も(わからないことばかりで、、)勉強の日々です。言葉も違えば考え方も全然違う学校を比べると、初めて気がつくこともたくさんあります。


日本の小学校は楽?


息子は日本の小学校に体験入学した時、初めての授業についていくのも大変だったようですが、唯一、

「日本の学校って楽だよね。」

と言っていたことがあります。

「リーディングが全然ないんだもん。」

国語の時間のこと、というか、図書の時間のことを言っているようでした。息子が普段通っている学校では、図書の時間といったら、ひたすら集中して本を読まなければならない時間なのだそうです。それだけでなく毎日クラスで読書の時間があり、さらに毎日15分以上家での読書が宿題。本を読む時間も量もかなりあり、毎週先生がチェックしています。


なかなか読書が進まない息子に、
先生は息子向けのダイアリーを作ってくれたこともありました。


さらにクラスの授業では別に教材を用意していて、新聞記事やら文学作品やら詩やら、いろいろな文章をまた「読む」ことになりますし、先生が子どもが楽しめそうな児童書を選んで読み聞かせもしています(読み聞かせは低学年だけでのものではなく、高学年もずっと継続して取り組まれているようです)。

息子の学校はオランダにあるブリティッシュ・スクールで、生徒はほとんど英語が第2外国語、母語ではないのですが、小学生のうちからかなりの多読を進めていきます。

日本の学校の図書の時間は、ゆっくり好きな本を選ぶ時間だったそうです。読書の時間や量について先生がチェックすることもありません。国語の時間も基本は教科書の「精読」なので、文章量が圧倒的に少なく、息子は「楽勝」と思い込んでしまったようです。


子どもの読書力がカギ


イギリスの学校での英語教育は、
聞くこと、話すこと、読むこと、書くこと、
もちろんバランスよく身に付けることを目標としていますが、その中で最重要視されているのは

「読むこと」

と明言していますし、先生も

「子どもが本を楽しんで読めるようになっているか」

ということにかなり気を使っています。

読むことで、

  • 語彙が増える
  • 文法の理解も深まる
  • 書く能力にもつながる

というふうに他の技能の向上につながると考えられていて(書くことは他の技能よりも時間がかかるとされています)、
知識を吸収するという勉強の基本も「読むこと」が大切だとされています(異論はないところですが)。

確かに英語だけに限らず、私の周りにいる、複数の言語習得がスムーズに進んでいる子は

「(必ずしも先生が推薦するような本とは限らなくても)たくさん読んでいる」

と思います。


教科書では中途半端?


日本の小学校でも、夏休みの読書感想文、読書日記など読書指導はあると思いますが、学校の授業は教科書が基本なので、扱える量は限られてしまうと思います(教科書の内容は素晴らしいものなのですが)。もっと長い本を丸ごと1冊読ませて、文章を体系的に読み取ったり、自分の考えをまとめたり、という機会がとても少ないように思います。

英語の話なのか、国語の話なのか、ごちゃごちゃになっていると思われるかもしれませんが、国語の「言語教育」で手薄になっている部分が、そのまま英語教育でも手薄になってしまって、日本人の英語の勉強がとてもアンバランスなものになっているのではないか、というのが最近私の思うところです。

母語が日本語で日本に住んで、日常的に日本語にたくさん触れられているのであれば、そこまでこだわらなくても日本語は身につけられるのかもしれません。でも、言語が2つ、3つと増えてきたら、読むことによるインプット量が大きな差になるのでは、という気がしています。

従来の(たとえば、私が日本の中学高校で習ってきた)英語教育は読解、文法に力を入れてきたと思われていますが、言語を学ぼうとしている割に教科書は薄っぺらで、中途半端な量しかこなせていなかったのかもしれません。

これからは小学校でも英語教育が本格的に始まりますが、話すことと聞くことを重視する割には始めるタイミングが遅すぎるし、教科書を中心に授業をしているだけではバランスが取れないのではないかと思っています。

テストで良い点を取るだけであれば、本を読むことは必須ではないし、逆に非効率なのかもしれません。本を読むことが最初から好きな子もいれば、好きになるまですごく時間がかかる子もいます。苦手な子はかなり苦労します。

それでも「読むこと」をこれだけ重視する教育スタイルを目の当たりにすると、やはり「本しかないのでは!」と思う今日この頃です。


野口由美子

2019年3月20日水曜日

10年後の自分への手紙。10歳で夢を持つのは難しい?

20歳の自分に手紙を書く

という単元が小学4年の国語にあります。

「10歳くらいだと、まだ子どもらしい素直な夢を持つことができるのではないかと思います。」

と日本の先生が言っていたのが印象的でした。そういう純粋な気持ちで、子どもが将来の自分の夢を抱く、というのがこの単元の想定のようです。

子どももだんだん大きくなると、将来の夢はサッカー選手やケーキ屋さん、みたいな子どもらしさはなくなるだろう、というのは私も想像に難くないですが、その時は

「そうだろうなあ。」

と納得しながら先生の話を聞いていました。


チューリップの季節が近づいてきました。



将来の夢は「ない」


では、10歳息子の将来の夢は何なのだろう、と興味津々で、20歳の自分に手紙を書く宿題を見ていました。

「将来の夢なんかない!僕そんなの考えたくない。」

息子は怒った調子で、

「夢はない」

と宿題に書いていました。それで終わらせるのはもったいないと思ったので、私は口を挟んでみることにしました。

「テニスの選手は?」

「無理だよ、そんなの。ぼくテニスを仕事にしたくない。」

「20歳だったら、まだ大学とかで勉強していているかもしれないし、働くことだってできるんだよ。まだ勉強していると思う?それとも働いてみたい?」

「そんなのまだわかんないよ。」

「それはそうだよね…」

息子の気持ちもわかるような気がします。


「子どもらしい」のは7歳まで?


取りつく島もない息子の横で、7歳の娘に将来の夢を聞いてみると、

「大坂なおみみたいなテニスの選手になって、あとペットシッターとか動物のお世話をする人になりたいし、自分も犬とネコを飼うの!」

と即答してくれていました。純粋に子どもらしい夢を持つには10歳は大きくなりすぎたのかもしれません(息子が7歳の時は、写真家になりたいと言っていましたね)。

スポーツ選手になりたい、みたいな無邪気さもなければ、自分の強みや嗜好を職業選択に結びつけられるような先見もない息子は、ある意味10歳らしい、といえるかもしれない、と私は思い直すことにしました。


大人になった自分が行きたい所は?


将来の夢というのは「職業」に限定しなくてもいいはず、と私は方針転換して、質問を変えました。

「将来の夢はないっていうのでも、もちろんいいと思うよ。本当にそう思うのならね。でも、夢がない、だけじゃ作文の宿題にならないから、ない理由をちゃんと書きなよ。」

やはり、それでは何も書けないままの息子。

「じゃあさ、大きくなったらやってみたいこととか、行ってみたい所とかないの?」

「うーん、宇宙に行ってみたい。月で石を拾って来たいな。ほら、今度日本人のビリオネアが宇宙に行くよね。未来になったら、もっと少ないお金で行けるようになっているかもしれないし。」

どうやら、宇宙飛行士、としてではなく、単なる旅行者として宇宙に行ってみたい、ということのようです。彼にとって、未来の宇宙は、アルバイトでもしてお金を貯めれば行けて、今までにない体験ができそう、くらいの所みたいでした。

「今ぼくは大きくなったら、うちゅうに行きたいと思います。ぼくは月に行って日本の旗をさしたいと思います。」

そんな書き出しで、ようやく、宿題の作文を書き進めることができました。

作文を見ていて面白いと思ったのは、息子にとっての「月」は、子どもの時の私には「海外」くらいだったのではないか、ということでした。行ってみたい未知の世界、といったら子ども時代の私にとってはせいぜい「アメリカ」くらいだったのではないかと思います。

世界は狭くなりました。情報は早いし、大量に流れきて、子どもだってそれを見ているわけです。

それでも、子どもが夢を持てる場はまだあるのかな、と思います。


野口由美子

2019年2月27日水曜日

子どものため、が子どものためにならなかった話

先週は学校のお休みだったので、家族旅行に行ってきました。今回の旅行は、

「子どもたちの行きたい所で、子どもたちのやりたいことをしよう!」

ということにしていました。


子ども最優先、で計画した旅行


子どものリクエストは

スペインのマヨルカ島あたり。

マヨルカは比較的最近行った所で、子どもの記憶によく残っていたためにマヨルカという地名が出てきたようでした。なぜいいのか聞くと

・ホテルに室内プールとテニスコートあり

・ハーフボード(朝食夕食はホテルで、夜遅くまでレストランにいないで済む)

・(泳げなくても)ビーチがある

・シーフードが美味しい

・とにかくリラックスしたい

というのがポイントだったようです。確かにその時の旅行は、オフシーズンのリゾートホテル(なぜオフシーズンに?と思われるかもしれませんが、宿泊費も半分くらいになるので、高級な所にも手軽に泊まれるのがまたいいのです)でのんびり過ごしていました。

街を観光して歩き回るのは子どもたちが苦手とするところ。ましてや美術館に入ったり、ショッピングをしたりなんて、好きではないのはわかっていました。でも最近は、歴史的な建造物など興味深く見ている姿もあり、子どもの成長を感じていたのですが、やっぱり旅先では何もしないのがいいみたいです。

子どもからのポイントが網羅された所、ということで今回はスペインのマラガ近く、マルベーリャを選びました。


子どものペースで過ごすのも楽しい、けれど


朝からプール。ビーチを散歩して、昼食は近所のレストランでシーフード。午後はテニス。夕方はゲームをしたり読書したり。夕食は早めにホテルのビュッフェ(スペインは夜レストランが開くのが8時9時が当たり前で、早く部屋に帰れるのはいつも以上にありがたいことなのです)。


海に入れなくても、ビーチは楽しいらしく、
何時間でも過ごせるのでは。


私も毎日朝から泳いで健康的な生活(でも、せっかくあるからと朝食からホテルでカヴァを飲んでしまって、アルコール摂取量も増え、健康にマイナス面もあるのですが)、読みたい本も読み進められたし、何よりリラックスできてよかったです。でも、せっかくの旅先だからちょっとお店を見て回ってお土産を買いたいと思いました。

帰りのフライトの前日、ホテル滞在最後の日に

「ちょっとマーケットに買い物に行かない? スペインのお塩を買って帰りたいんだけれど。」

子どもたちにそう言ってみたら、

「絶対イヤ! ショッピングなんかに行ったらそんなのホリデーじゃない!」

完全拒否、最後は半泣きで拒まれました。

私にしてみれば、これまでずっと子どもたちの希望通りにやってきたのだから、

「ちょっとくらいママに付き合ってくれてもいいのでは?」

という言い分なのですが、子どもにしてみたら、

「なんでここまできて、今さらそんなことしないといけないの?」

という気持ちだったようです。


この時期のアンダルシアは静かで、いい所でした。



子どものため、自分のため


この時私は、失敗したな、と思いました。子どものために、なんてすべて犠牲にしてしまうと親の私は

「ここまでやっているのに、少しくらい言うこと聞いてくれてもいいじゃない!」

と思ってしまい、子どもは子どもで

「最後まで全部やりたいようにやらせてよ。」

と、お互い全く歩み寄れなくなってしまいました。旅行先で険悪になるのは残念なのですが。

これは旅行だけのことではないかもしれないですね。子どものためにと思って親が一生懸命(自己犠牲もしながら)だと、子どもがうまくできなかったり、嫌がったり、期待する結果が得られない時に、つい

「どうしてダメなの!?」

と落胆したり、怒ってみたり、してしまうのですが、そもそも子どものため、と思って始めたことなのに、子どもが期待に応えてくれない、と勝手に期待して勝手にがっかりする自分も悪いのでは、とさらには自己嫌悪…何もいいことがない気がしました。

家族旅行は家族全員のため。

ということで、

・子どもが行きたいプール

・パパが行きたいレストラン

・ママが行きたい美術館(私だけショッピングが追加されることもあるのですが)

の3つは必ず旅行の日程に含めることにします!


野口由美子


2019年2月5日火曜日

海外から見た、日本の小学校「先生が厳しくない」?



海外生活が続いている私たち家族ですが、息子小学4年と娘小学1年が日本の小学校生活を体験しました。日本で初めての学校生活、2人に共通した感想は、

「先生がやさしかった。」

でした。

漠然としたイメージ(私の固定観念です、、)に過ぎないのですが、海外の学校の方が子どもが自由でのびのびしていて、日本の学校の方がルールやマナーを重視している、と思っていた私は、ここでも漠然と、日本の先生の方が厳しいのではないかと想像していたので、意外に思えました。

「やさしい」の意味も、その国の文化、文脈によって意味が変わってきそうな気もします。


東京の風景。ヨーロッパの風景とは全く違っていて、
ここに暮らす人の文化も違って当然だよなあ、と改めて思いました。



やさしい先生=叱らない先生?


子どもたちの通っている学校は、確かに規律には厳しめ(イギリス国外にあるブリティッシュ・スクールなので、アメリカン・インターなど他の学校とは教育スタイルが違うかもしれませんね)。

息子くらいの年齢になると、体育の着替え時間にふざけていた、集会の時きちんと並んでいなかった、みたいなことでも結構厳しく注意されるようで,
大人の私が見ていても

「先生怖いなぁ。」

と思ってしまうくらいの叱り方をします。


「授業中うるさかったから、クラス全員休み時間を5分減らされた。」

みたいな罰則も多いようでした。

偶然にも、どちらの学校でも、息子の担任の先生は、中堅くらいの年齢、見た感じはやさしいけれども厳しい先生、というような似た雰囲気の先生に見えました。でも、日本の学校生活で、息子は、先生が厳しく叱ったり罰を与えたりする場面に全く会わなかったそうで、息子は「先生がやさしい」と思ったようです。

最近日本では、学校での厳しい指導に対して、親から苦情が頻繁に来るようになったのかも、という話も聞きました。確かに、そういう事情もあるのかもしれません。先生に対する親からの要望もまた、違いがあるだろうと思います。難しいところです。


やさしい先生=子ども第一?


娘の担任の先生もやさしかった、です。こんなこともありました。日本での学校初日、私は下校時間に学校の門の前で娘を待っていました。

娘と同じ小1の子たちがどんどん帰って行きますが、娘は出てきません。下校する子たちの流れが途切れ、心配になった私は門から入って娘を探しに行きました。すると担任の先生がずっと娘と一緒に私が来るのを待ってくれていました。先生は私に今日の様子を直接報告して、直接娘を私に引き渡したかったようで、わざわざずっと待っていてくれていたみたいでした。

「今日は本当によくがんばっていました。」

クラスでやったことや休み時間の様子など、先生は詳しく話してくれました。

海外生活ではいつも、学校の子どもの様子を知りたいと思ったら、親から先生に聞きに行かないとダメ、と思っていた私にとっては、私から聞かなくてもいろいろ教えてくれる先生に驚きでした。

今までの海外生活では、先生の所へ行っても、大抵

「大丈夫、大丈夫!」

みたいな感じで終わってしまうので、こちらからいろいろ話していかないと知りたいことは聞き出せません。先生も、聞きたいことがあったらいつでも聞いてください、と親切に言ってくれるのですが、


「私のやることはここまで、です。」

というような暗黙の線引きがはっきりしていて、それ以上は対応してもらえないだろうな、という雰囲気を感じます。もちろん、仕事の責任をはっきりさせること自体は悪いことではないですし、先生に限らず、ヨーロッパ的な個人主義といった価値観や、仕事観に通じるのかもしれません。

日本の仕事観は、責任があいまいであれもこれもと過度な負担を与えることにもなっていると思いますが、もっと、仕事第一(先生だったら、子ども第一、ということだと思います)でがんばっている、とここでも感じずに入られませんでした。

娘は、

「〇〇先生(日本での担任の先生)の方が、Mr. XX(オランダでの担任の先生) よりやさしい。」

と言っていました(どちらも若い先生で「やさしい」感じ、正直なところ、Mr. XXの方が見た感じも授業のスタイルもスマートな印象を与えるのですが、そういう表面的なことに惑わされない娘にちょっと感動してしまいました)。



先生と一言で言っても、どの国にもいろいろなタイプの先生がいるのだから、一概に言えることではないのですが、日本で小学校の先生を見ていると、

「先生が一生懸命やってくれているなあ。」

と感じることばかりでした。多分そういう先生の誠実さは、「やさしい」と子どもの目に映ったではないかと思います。もしかしたら日本の先生はがんばり過ぎているのかもしれませんが、いい先生に巡り会え、とても感謝しています。


野口由美子
 


2019年1月24日木曜日

海外から日本の小学校へ、10歳で初めての体験入学

初めて日本の小学校に体験入学をした子どもたち、3週間という短い期間でしたが、いろいろな経験ができました。

「日本の小学校も好き。楽しかった!」

というのが今回の子どもたちの感想で、これは担任の先生やクラスの子達のおかげ。本当に感謝ばかりでした。日本の小学校を体験できてよかったと思います。

日本の学校に通い始めた当初は
朝からちょっと緊張していました。

保護者会などで、クラスの親御さんと話してみると、意外にも

「海外の学校教育っていいって聞くから、うらやましいですね。」

なんて言われることが度々ありました。

「そうとも限らないですよ。いいところもよくないところも、それぞれありますし。」

と、そこからいくらでも長所短所の話ができる私から見ると、日本の小学校だっていいところがたくさんあると思いました。国によって教育に対する考え方が違うのは当然のこと。そこから生じてくる長所短所は表裏一体なのではないかと思います。

では、私のような大人ではなく、子どもの目からは日本の小学校がどのように見えたのか、興味がありました。

自分の体験だけで日本の学校はこうで、海外の学校ではこうだ、とまとめてしまうのは乱暴ですが、子ども自身が体験した2つの学校の違いについて、10歳の息子が特に気になったのはこんなことだったみたいです。

「クラスに40人は多すぎる。」


たまたま日本で息子の入ったクラスは、児童数が39人でした。今東京都の小学校は3年生以降は40人学級なのだそうです。40人ギリギリのクラス編成になっているケースは実際にはそれほど多くないのかもしれません。その小学校の中でも特別人数の多いクラスだったようでした。

息子が昔住んでいたイギリスでは低学年クラスの上限が30人と決まっていましたし、今の学校では息子のクラスは20人。息子はこれだけ大人数のクラスに入ったことはありませんでした。

「クラスがざわざわしていることが多いし、クラスの子の名前も覚えられない。人数が多すぎると思う。」

最初はすごく戸惑ったようでした。

オランダでも教員人不足などの理由で、1クラスの人数が多すぎる問題はあるそうです。でも、30人を超えるクラスが問題とされているようで(オランダには10%程度あるそうです)、オランダで日本ではクラスの上限40人だという話をしたら、

「オランダも40年前はそんなだっだわねえ。」

と言われてしまいました。確かに私自身が子どもだった頃も40人学級だったように思いますが、さすがに今の時代に合っていないのではないかと思いました。


「なぜ黒板を使うの?」


「黒板って他の日本の学校では使っていないよね?」

日本で先生が黒板を使って授業するのを見て、これは自分が今通っている学校だけのことだろう、と思ったようでした(オランダの博物館で、黒板のある教室が「歴史的な建造物」として保存されているんですよね)。

「日本は黒板を使っている学校の方が多いと思うよ。」

と話したらびっくりした顔をしていました。

息子は、

「黒板は大変すぎない? パワーポイントでいいんじゃないかなあ。」

と思ったそうです。私も日本で授業参観をさせてもらったのですが、その時は

「先生の黒板の使い方が上手すぎる。」

と思いました。

先生は黒板1枚に授業にやったことが凝縮されるように書いていきます。授業が終わった時に黒板を見ると、その授業の内容が一目でわかるようになっていました。

先生が黒板を書いていると、先生が背を向けることになって授業がストップしてしまうから良くない、と私は思っていました。でも、先生が黒板を書いている時間は、自分で教科書の内容を読んだりノートに書いたり、自分で考える時間になっていて、黒板を書く時間も有効に使われているようでした。

でもそんな授業ができるのはそれだけ訓練してきたからでしょうし、先生全員にそんな黒板使いの高い「技術」が要求するのは、息子から見ると不条理なことなのかもしれません。

「給食当番や掃除当番ってみんなでやるんだね。」


そもそも給食当番も掃除当番もない学校生活を送ってきた息子にとっては、係や当番は新鮮だったみたいです。日直、係、給食当番、掃除当番など、クラスではいろいろな役割をみんなが分担します。日直や当番はみんなが交代でやるし、誰もが何かの係の仕事を担当します。

あたりまえ、のことに思えるかもしれませんが、普段子どもが通う学校では、「みんなで仕事を分担する」という発想はないように思います。「自分がやりたいと手を挙げた子がやる」ものなのですよね。主体性がなければ意味がないのだと思います。

主体的に奉仕することが大切、ということになると、静かに黙って、何もやらずに済ませることもできますが、それでも

「私がやります!」

と言う子が必ず出てくるようです。これこそがボランティア精神だと思うのですが、あまり積極的でない息子にとっては、日本の「みんなで協力し合うことが大事」というやり方も悪くないと感じたようです。

慣れない学校生活、息子は、毎日学校から帰ってくると、気が抜けてしまうのか家でぼーっとしていました。始まった当初は特に戸惑いや緊張の連続だったようです。


子どもの視点から見えるものは、意外と文化の本質的な違いにつながっているようで、話を聞いていて面白かったです。

内心驚いたのは、息子が、下校時間には私に家にいてほしいと頼んできたこと。日本にいると登下校も友達の家に出かけるのもひとりでできるので、息子は急にひとりで行動することが多くなりました。急に自立してしまったようで、母親のことが鬱陶しくなってきたのではないかと思っていた矢先、ちょっと意外でした。

私が家にいても、息子はぼーっとしているだけで、特に私に何かをしてほしいわけではなかったようですが、息子にとって、親子一緒にいる時間はもうしばらく必要なのだろうと改めて気づかされました。


野口由美子